不入流を開いたのは初代当主で現祖主である高橋 勤が1974年5月に紋金系統門下の久川紋章処より独立、横浜市老松町29に高橋紋章処として開業したのが始まりである。
『元々紋金系統はその名の示す様に紋章上絵を生業とし、シミ抜きを副業としていたのですが、先々代の吉池啓悦先生が第二次世界大戦後、戦地より復員せられ、蜜柑箱を机代わりに復興の礎とするも、先行きの生活を案じ、シミ抜きの技を磨くと共に、他流派である綾部の黒抜き技術、堤の糊置き技術などを吸収するとともに自らは過硼酸や青酸カリと過酸化水素水を反応させる変色処理技術、青酸カリを使用した金彩際周辺に出る緑錆ジミの処理技術、髪染め液の付着ジミの瞬時の処理技術など70年経た現在においても越える事が出来ないような技術を開発され、弟子達に伝えた。』
1975年に横浜市赤門町1‐3に高橋紋章シミ抜き店として街頭店舗の営業を開始すると同時に、各地に残る和服のシミ抜きやその周辺技術、例えば冷間シミ抜き法、着物水洗方法(袷を含む)、絞りの復元方法、どんなに縮んでいても元通りに復元できる仕上方法、丸湯のしによる仕上げ方法、洗い張り技術と其の仕上げである機械のし、伸子張り、板張りなどの技術、糊抜き糊入れ技術、特に着物の水洗技術において水洗中に出色しない方法と出た色が裏地等に接触しても移染しない方法などは、現在では2,3人しか継承するものはいないと思われる。
当時は高度成長期にあり、古い技術や手間の掛かる方法などは職人仲間にも敬遠され、次々に世の中から消えた。其の中でいくつかの貴重な歴史的技術を残せたのが不入流の誕生に影響を与えた。
そんな中で1980年という流派にとって重要な年がおとずれるのである。
4月9日に師匠が急逝する。それは予てより改革や研究の提案をしても却下し続けた一門の直接的仕置きが及びにくくなる側面があった。6月には十年来の懸案であった人間と素材に安全な漂白剤の基礎が完成した。7月には某メーカーからの誘いで、クリーニング業界での和服の講習会を屋号土佐屋で初めて開催する。其の時になって各流派の大切にしてきた独自の技なども改良した形で披露する事になり、どの流派の名前を出すのもはばかられる状態に至り、早急に名称を決める必要に迫られたのである。
祖主の故郷である四国山中、四万十川の源流で、『不磨不入』、磨かざる者入るべからずと不断の精進を常とする修験者の霊峰『不入山』から流派名を『不入流』と名乗り、独自の洗浄方法を出身地域名の桂から『桂洗い』と決定する。その年の9月から使用し現在に至る。